校外学習(菅浦~木之本~向源寺・十一面観音) 

    「近江と文学」  近江の道先案内人 いかいゆり子

       
文学作品をきっかけに近江の良さに気付く”ディスカバー近江


    校外研修  2019.3.20

菅浦は、中世において畿内の先進地域であった琵琶湖北端部つづら尾崎先端に位置し、背後を標高
約400mの山々に囲繞(いじょう)された狭隘(きょうあい)な扇状地に展開する集落です。
中世の惣村として、あるいは琵琶湖水上権を掌握した禁裏供御人(きんりくごにん)の住居地として有名
で、歴史学はじめ各方面からの研究がなされています。


 

 四足門(しそくもん)
 
菅浦には、東西の両端に「四足門」と呼ばれる門があります。この門は石組みの上に2本の主柱(おもばしら)と 2本の控柱を立て、主柱に冠木(かぶき)を置き貫でつなぎ肘木で桁を支える構造で、冠木門の一種です。
屋根は茅葺きの切妻で、破風飾りは民家と同じ菅浦独特のものです。扉はなく、控柱の方向で集落の内外を示しています。「木戸門」に類似していますが、閉鎖性はなく領域性は象徴的なものといえます。
この門は「四方門」とも呼ばれ、近年まで東・西・南・北の集落入口に設置され、集落内を明確にしていました。
現存する東門の棟札からは、幕末期の文政11年(1828年)8月吉日に再建されたことがわかります。
また、菅浦に残された文書からも、中世後期にはこの門が既に存在していたことが確認されています。


    

 須賀神社
 この神社は元は保良(ほら)神社(菅浦大明神)と称し、天平宝字8年(764年)11月の創立と伝えられて
 います。明治42年(1909年)に、小林神社(小林大明神)・赤崎神社(赤崎大明神)を合祀して須賀神社
 と改称しました。
 神社の石段は裸足でお詣りするのがしきたりだそうで、スリッパが置いてあります。


 菅浦文書
 菅浦文書は長浜市西浅井町菅浦の地に伝来する共有文書で、鎌倉時代から江戸時代にかけての
 古文書群65冊(1280通)と絵図1幅からなります。
 その所蔵は、菅浦の氏神・須賀神社の名義となっています。その内容は多岐にわたりますが、特に
 中世の惣村(自治部落)の様相を、詳細かつ具体的に知ることができ、民衆が残した文書としてきわ
 めて貴重です。
 菅浦の人々が村掟に基づく自治を行い、自分たちにとって有益な領主を選んでいたことや、隣村である
 大浦との土地争いをめぐる訴訟や武力衝突の様子などが克明に記録されています。
 2018年10月に「菅浦文書」は国宝に指定され、県内では実に52年ぶり、市内では64年ぶりの国宝誕生
 となります。

   

 木之本地蔵院

 北国街道 木之本宿
 木之本宿は、木之本地蔵院の門前町として、また北国街道と北国脇往還が交わる宿場町として古く
 から栄えてきました。
 北国脇往還は、木之本から関ヶ原に行く街道で、賤ヶ岳合戦の際には、羽柴秀吉が大垣から木之本
 の間(約52km)を約5時間で駆けつけた「美濃大返し」の道として知られています。




 向源寺 十一面観音

 渡岸寺観音堂に祀られている十一面観音像は国宝に指定されています。滋賀県の琵琶湖の北東部
 (湖北地方)にある長浜 市周辺は「観音の里」といわれ、古(いにしえ)より観音信仰が盛んな地方です。
 これは地形的に、この地方が京都から見て北東の鬼門(丑寅)方向にあたり、都を守護するため鬼門
 封じを考えて寺や仏様を祀ったためだと考えられています。京都の北東部には比叡山延暦寺があり
 ますが、更にその裏側に当たる琵琶湖の対岸も鬼門封じの守り所として大切にされてきました。

 国宝となっている十一面観音像は渡岸寺以外に、奈良聖林寺・奈良法華寺・京都六波羅蜜時大坂
 道明寺・京都観音寺・奈良室生寺などがありますが、ここの観音像は日本彫刻史における最高傑作
 とも称され日本一美しいと言われて多くの仏像ファン魅了しています。

 ちなみにこの観音像は元々、聖武天皇の勅願で制作されたもので、白山信仰の祖である泰澄大師に
 よるものです。
 都に疱瘡が大流行して死者が相次いだので、それをうけてのものなのだとか。
 その後は泰澄が開いた、慈雲山光眼寺というお寺が所有していたのですが、戦国時代に織田信長と
 浅井長政による姉川の戦いで堂宇は焼失してしまいました。
 でも観音様だけは、住職と門徒たちに土に埋められて守られたそうです。

 
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